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HISTORY

チームの歴史

1993

2年連続のブロック優勝を果たすが、入替戦出場決定戦で敗戦

創部10年を迎え、監督というポジションを廃止し学生主導でのチーム作りでシーズンに臨んだ1993年。
関西学生リーグDiv3と名称変更された秋季リーグ戦で2年連続のブロック優勝を果たすが、入替戦出場決定戦で大阪教育大に完封負けを喫し、シーズンが終了。(伊丹スポーツセンター)
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【関西学生Div.3 E】4勝0敗(優勝)
入替出場決定戦敗戦

主将:宮川(#1 CB)

※高野山大学と10周年記念試合 創部10周年祝賀会(於:和歌山東急イン)

1993年 戦績

メンバー表

1992

リーグ優勝・入替戦に出場するも敗退し、3部残留

ブルー・リバース時代を知る部員がいなくなったこの年、和歌山大は3部中ブロックで、大阪経済法科大・徳島大・帝塚山大・宝塚造形芸術大の4チームとリーグ戦を戦うこととなった。

緒戦の帝塚山大戦を完封で飾ると、そのまま全勝で初のブロック優勝を果たす。リーグ加盟後4年目での事だった。その後の入替戦出場トーナメント2試合(vs大阪国際大、滋賀大)を勝ち抜き、初の入替戦に進出。

神戸商科大(現 兵庫県大)との入替戦(於:西宮球技場)は、QB梶原の活躍で1Qこそリードを奪うものの、26-45で敗戦。初挑戦での昇格はならなかったが、この優勝を境にチームとして「2部」を現実として見極めることが出来るようになる。
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【近畿学生3部 中】4勝0敗(優勝)
入替戦敗戦 3部残留

主将:西川(#5 SS/R)

1992年 戦績

メンバー表

1991

近畿学生3部南 1勝4敗 5位

ヘルメットに初めてロゴマークのデキャルを貼った1991年。
榎本晋也新監督(愛媛大OB)のもと、秋のリーグ戦に臨むも、天理大・大阪工大・阪南大に連敗。その後の大阪商大戦でシーズン初勝利を挙げ、リーグ加盟後初のシーズン2勝目を目指し、前年引分けの大阪外大(現 大阪大)戦に臨んだ。しかし、3-24と完敗し、1勝4敗(5位)でシーズンを終えた。
2部昇格はおろか勝ち越しさえ難しく思えたリーグ加盟後の3年間であった。
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【近畿学生3部 南】 1勝4敗(5位)
主将:小松(#24 RB)

1991年 戦績

メンバー表

1990

体育会理事会にて同好会から体育会に昇格

リーグ戦3敗1分と未勝利のまま迎えた10/28の万博球技場。岩井監督の勇退試合でもある大阪商大との最終戦で勝利を収め、1勝3敗1分(4位)でシーズン終了。

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【近畿学生3部 南】1勝3敗1分(4位)
主将:田中(#63 RG/LB)

※10/24、体育会理事会にて同好会から体育会に昇格承認

1990年 戦績

メンバー表

1989

関西学生連盟正式加盟 、近畿学生リーグに初参加

昭和から平成へと元号が変わった1989年。近畿学生リーグ3部南ブロックでの秋季リーグ戦参加が決定。
9/15の万博サブグラウンド。和歌山大ブラインド・シャークスにとって公式戦緒戦、大阪外大(現 大阪大)を相手に加盟初のタッチダウンを奪うものの6-19で敗戦。しかし、チームとして踏み出した一歩は力強く大きなものだった。
3連敗で迎えた10/15の長居球技場(現キンチョウスタジアム)。兵庫医科大から1Qに先制TDを奪い、4QにもTDで加点。ディフェンスは完封でリーグ加盟初勝利を挙げる。
リーグ加盟1年目は1勝4敗(5位)でシーズンを終えた。
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【近畿学生3部 南】1勝4敗(5位)

主将:藤岡(#34 LB)

※8月に初の単独チームとしての合宿
 関西学生連盟正式加盟、近畿学生リーグに初参加

1989年 戦績

メンバー表

1988

関西学生連盟準加盟、チーム名をBLIND SHARKSに

1988年春、和歌山大アメリカンフットボール同好会「ブルー・リバース」にとって大きな転機が訪れる。部員数9名であったところへ10名のプレイヤーと2名のマネージャーが入部。初の現役学生のみで単独チーム結成が可能になった瞬間であった。
さらにこの年、和歌山大学体育会に準加盟し、大学間定期戦ともいえる和滋戦に、オープン競技として初参加したが、結果は0-44の惨敗。
この段階までのチームとしての方向性は、プライベート・リーグへの参加であった。
ある日、岩井茂和監督(大商大OB)は部員全員を集めてこう言った。「本気で勝ちたいのか?」全員が頷いた。そして、関西学生リーグに参加することを決定した。

チームカラーをBlack&Silverに変え、ニックネームをBLIND SHARKSとして生まれ変わった。
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初の和滋戦 和歌山大 0‐44 滋賀大
8月に高野山大学と合同合宿
関西学生連盟準加盟、チーム名をBLIND SHARKSに変更
11/23  和歌山大 36‐6 大阪経済法科大

主将:藤岡(#34 LB)
1987

部員数が学生のみで13名に達した

ヘルメットがチーム名と同様のメタリック・ブルーに塗られた1987年。学生のみで13名の部員数に達した。だが、練習環境は決して良いものではなかった。高松グラウンドの片隅で、雑草を芝生だと言い聞かせた。
この段階までの和歌山大のチームとしての方向性は、プライベートリーグに参加すること。しかし、関西学生連盟への加盟という選択肢も見え始めていた。
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8月に高野山大と合同合宿
10/25 ALL 和歌山大 0‐52 奈良ファイティングバックス(社会人)

主将:山口
1986

8月に高野山大学と合同合宿

8月に高野山大と合同 合宿
10/19 和歌山大&高野山大 0‐49 兵庫教育大
10/26 ALL 和歌山大 0‐6 奈良ファイティング バックス(社会人)

主将:西村(#62 OL/DL)
1985

「BLIND SHARKSの軌跡、そして未来へ」

【OB会会長 経済学部36期 岡澤利彦】
私が練習に参加し始めた1985年の夏、部員は10名程で、練習はもっぱら1対1のタックル練習が中心。県庁前にあった教育学部グラウンドで、相撲のぶつかり稽古さながらの光景が延々と続けられていました。唯一の楽しみといえば、個人としての「当たりの強さと低さの追求」でした。当時の私たちには、このアメフト同好会が体育会に昇格し、関西学生連盟に加盟、そして2部リ-グに定着し当時の強豪大学と互角に戦うことになるなどとは夢にも思いませんでした。
そんな私が、いま和歌山大学グラウンドで汗を流している学生達を見てこう思います。「君たちは輝いている!素晴らしい!そして羨ましい!」と。和歌山大アメリカンフットボール部の軌跡は、まさに“奇跡”です。
我々OBの役割は、君たちを誇りに思い、信じ、そして時には酒のつまみにしてこの軌跡の続きを見守り続けていくことです。この先、BLINDSHARKSが描く“軌跡”、そして起こしてくれる“奇跡”を楽しみにしています。

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和歌山にアメリカンフットボールを広めようとQBクラブの協力の下、「和歌山フットボールフェスタ」を開催、地域への普及活動も行なっている。
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主将:中谷
1984

「創部秘話」

【OB会初代会長 教育学部34期 中谷智喜】
皆さんは「タッチダウン」というアメリカンフットボール専門誌をご存知でしょう。この存在がなければ和歌山大学にアメフト部は生まれていなかったかもしれないのです。
部を創設した私と、同期の宮脇冨美男は共に他大学を中退しての和歌山大学入学組。体育系クラブには入りたいが、既存クラブでは年下の先輩たちに囲まれることになるため、当時の和歌山大学には存在していない新しい運動部を創ろうと考えていました。
1984年のある日、宮脇はたまたま立ち寄った生協で一冊の雑誌を手にします。それこそが「タッチダウン」。何気なくページをめくっていると、ある地図が目に入りました。それは「アメリカンフットボール分布地図」。和歌山県は分布していないことを示す白色でした。「これだ!」2人が和歌山でまだ誰もやっていないアメフトをやろうと決意した瞬間でした。そして同好会として大学に登録してもうために動き始めます。教育学部の宮永教授に顧問をお願いし、さらに同好会の条件である会員15名を確保する為13名に名前を借りました。こうして実質2人だけのアメリカンフットボール同好会が発足したのです。
練習場所は、大学構内ですることは殆どなく、もっぱら和歌山城内の公園でした。環境は決して良いものではありませんでしたが、グラウンドの片隅の雑草を芝生だと言い聞かせて頑張っていました。2人だけでしたが、情熱だけは誰にも負けていないという自負がありました。

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アメリカンフットボール同好会Blue Riversを創部した。
8月に加太にて近畿大学医学部、高野山大学、和歌山大学での3校合同合宿を行った。
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主将:中谷